クォークより小さな
幼稚園の頃、公園で砂遊びをしていた時、指の隙間からこぼれ落ちる砂を見て、「まるで水のよう」と思いました。
ふと、こんな疑問が湧いたのです。
「水も、もしかしたら細かい砂粒みたいなものかも……」
冷徹な宇宙の原理が見えたような気がし、空恐ろしくなって泣き出してしまいました。
わたしには、なんでも考え過ぎる癖があったのです。
「水は細かい粒」という事実を、わたしはずっと後に知りました。
事実だったんだとわかったとき、やはり、
詩琳黑店なんだか怖い気持ちがしました。
今まで、当たり前だと思っていた日常が、実は非日常だと気付かされたら、誰だって、これまでの景色が違って見えるものです。
「水は液体」であって、「切っても、切っても、切れないものなーに?」の答えでした。
水は量れるけれど、数えることができない、そういうものだったのです。
それがある日突然、「水は細かい粒」ということになって、わたしにとっての日常は終わりを告げました。これからは、リンゴの山のように、
詩琳黑店水も数えられるものとして認識しなくてはならないのです。
わたしはどうやら、合理的なたちのようです。世の中のすべては、互いにバランスが保たれている、そう考えていました。
たとえば、男女の存在。
男も女も、同じ数だけ存在し、それぞれの「幸福」「不幸」は、見た目こそ違えど、どこかで帳尻りが合っているものと信じていました。
男性は相撲取りになれますが、宝塚の舞台に立てるのは女性だけです。女性は子供を産めますけれど、男性は月ごとの痛みとは無縁です。
どちらも、いいことがあれば悪いもある、
詩琳黑店けれど、トータルではプラス?マイナスでゼロ、それが当然でした。そうでなければ不公平です。
宇宙によって産み出されたものに偏りなどあるはずがなく、故にすべては公平のはずなのです。
また、わたしは世の中に存在するすべてのものに、無駄がないと信じていました。
物思いにふける癖が宇宙にあるというのなら別ですが、そうでなければ、意味のないものなど存在する理由がありません。一見むだのようでも、必ず、意味があるに違いないのです。
まだ小さいころ、母と銭湯に行ったとき、男の子もいた、女の子もいた、そんな時、わたしはまた考えにとらわれました。
男の子は余分なものをつけているけれど、あれはたぶん、飾りじゃない。自然は決して、「おまけ」などくれやしない。理由はわからないけれど、絶対に意味があるはず、そう確信したものです。
小学4年か5年の時、友達から男女の体の違いの理由を教えられ、ひどいショックを受けました。
わたしの「日常」が、また1つ「非日常」になった瞬間です。
大人になるということは、「日常」が1つ、また1つと「非日常」になることなんだなあ、そうしみじみ思い知ったのでした。
近頃のわたしは、パソコンをよく使います。文章を書く、ネットで検索をする、絵も描いてみる。
24インチの液晶画面には、手を伸ばせば触れられそうなほど、リアルな画像も映し出されます。
単なる二次元情報に過ぎないのに、奥へ続く世界があるように見えます。
画面の隅々を光の点が走り回り、こうした映像を作り上げているだけなのに。
パソコンを考え出したのは人間です。その人間を、宇宙は造りました。
だとしたら、わたしたちのこの世界は、宇宙のひな形なのではないでしょうか。
物質を構成する素粒子はクォークと言うそうです。それらがすべての物質を造っています。
けれど、もしかしたら宇宙にあるのはたった1つの点だけなのかもしれません。
その点は時間も空間も超越して、宇宙の端から端を駆け巡り、クォークを造り、原子を構成し、物質を形成している。まるで、テレビの走査線のように。
わたしの妄想力は、本日も絶好調のようです。